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2018.05.01
NIRA総研の牛尾治朗会長と宇野重規理事が、経済社会のグローバル化が進むなかで、国や地域を自分が支えるという意識は人々のなかでだんだんと弱まり、国や地域を支える意識をもった人々が少なくなっていると指摘しています。グローバル経済の進展と、地域コミュニティの弱体化。たしかにこの二つは、人材の輩出に影響を及ぼすと考えられそうです。グローバルとローカルを二項対立ではなく、共存するものと捉える発想の転換が重要となるでしょう。二人の対談から、本来の意味での個人主義を根付かせ、そして1人ひとりが「公」を自分のこととして捉え、多様な意見のもとで議論をできるような社会をつくる必要性を強く感じました。
【ナビゲーター:川本茉莉】
松下政経塾の設立と現代
宇野 PHP研究所が発行する月刊誌『Voice』の創刊40周年の機会に、松下幸之助と深い関わりをもつ牛尾会長に、まずは松下さんが創刊に込めた想いやそのきっかけから伺いたいと思います。そのうえで、当時の改革への想いがどのように現在につながっているかも考えていきたいと思います。
まず、『Voice』創刊のきっかけはどのようなものだったのでしょうか。創刊は1977年ですから、当時の状況も関係していましたか。
牛尾 当時の大平正芳(おおひらまさよし)首相が設けていた9つの研究会が1つのきっかけです。そこでの成果をいろいろな雑誌が掲載しました。その少し前に、香山健一(こうやまけんいち)(元学習院大学教授)さんたちの「日本の自殺」が『文藝春秋』に掲載されました。松下さんもそうした論壇誌をつくることを意図されて、『Voice』が立ち上げられました。何もないところに花壇をつくるようなイメージです。最初は切り花でもいいから、思想を大切にして花を揃えていく。同時に種も蒔ま いて、数年後には種からも花を咲かせる。そうして次第に自分たちの花を咲かせて花壇をつくっていく。
宇野 『Voice』の創刊は、松下政経塾の動きとも関連していたのでしょうか。設立は1979年で開塾が1980年ですから、時期は非常に近いですよね。
牛尾 1979年の政経塾の設立は、じつは僕が反対したことなどもあって7年くらい遅れたんですよね。僕は当時、政治や権力というのは、奪い合って勝ち取るものであって、月給を支払われて育てられたような人が担うものではないと考えていました。誰かに育てられたような、貧弱な政治家をつくっても仕方ないと。
宇野 では学生の募集も、実際には予定よりも遅れていたんですね。
牛尾 遅れた理由はほかにもいろいろあったと思いますが、松下さんからは「あなたのいうようなことを全部実現しようとしていたらさらに時間が掛かってしまう。しかし現状の政治は早く変えていかなければいけない。あなたのいうことはもっともなので、ぜひ副塾長として一緒にやってもらいたい」といわれました。当時の政治に対して危機感を強くもっておられたのでしょう。
宇野 ところで、野田佳彦(のだよしひこ)元首相は松下政経塾の1期生ですよね。
牛尾 政経塾は当時から非常によい待遇で、海外も含めた政治の現場で働くことを通じて実践的に学びを深めるといった機会も提供していたこともあり、1期生には900人ぐらいの応募がありました。そこから絞り込んで、最後に残った20名程度を松下さんと僕で分担して面接しました。それで、僕が担当したなかの5番目くらいに野田さんがいました。
1人目からずっと自分の政治論ばかりを語る人ばかりで、これが何人も続くのは大変だなと思っていたところに、野田さんが来ました。野田さんは少しだけ話をした後で、「政経塾ではどういうことをするのですか」と逆に質問してきました。学びの場は提供するが、何を勉強するかは全部自分で考えて決める。自修自得が方針だ、と説明したら野田さんは「それはいい考えですね」と。彼は自分の演説は5分くらいでしたが、合格にしました。
宇野 1期生から総理大臣が出たということですよね。いまの政界には松下政経塾の出身者がかなりいますから、先ほどの『Voice』の話ともつながりますが、蒔いた種からたくさんの花が育ったということになります。
野田さんは1992年に細川護煕(ほそかわもりひろ)元首相を中心とした日本新党の結党に参加し、93年に衆議院に初当選しています。政経塾8期生の前原誠司(まえはらせいじ)さん、10期生で元横浜市長の中田宏(なかだひろし)さんなども同時期です。政経塾出身ではありませんが、小池百合子都知事や安倍晋三首相も93年初当選です。あらためて考えてみると、実際にいまの日本の政治を動かしている中心にいるのは、そのころのメンバーだと見ることもできそうです。
牛尾 当時は、若い人たちによる政治の時代が始まりかけていた時期でしたからね。
宇野 しかしそこで開いた花は、じつはもっと前、1970年代後半から松下さんと牛尾会長が中心となって花壇に種を蒔いていたもので、それが実を結んだということになるんですね。
牛尾 僕も2週間に1回くらい、政経塾で話をしました。僕が1時間話をして、その後は皆で議論をするというスタイルでしたね。その後、松下政経塾の講義が本になっていくのですが、第1巻の冒頭は僕が書きました。それが8巻まで出ましたが、たいへんよく読まれました。そういう点では、松下さんは活字であろうとテレビであろうと、情報媒体を使って自分の意志を伝えるということが天才的にうまかったですね。もちろん『Voice』もそうです。
アメリカ政治の実験精神
宇野 さらに時計の針を戻してお話を伺います。牛尾会長が政治に関心をもたれるようになったきっかけの1つには、アメリカに留学されたこともあったのでしょうか。
牛尾 それは大きかったですね。1955年にカリフォルニア大学バークレー校の政治学大学院に留学しました。その翌年が、アイゼンハワー大統領が再選した大統領選挙で した。大学院の講義のなかで学生が民主党と共和党に分かれて選挙を手伝いにいくというものがあって、僕は民主党の選挙活動に参加しました。こうして、アメリカ政治の現場を見る機会を得ることができました。
下院議員と上院議員の選出方法の違いやその考え方などにも感心しましたが、とくに感じたのは、アメリカ政治というのは、当然さまざまな利害対立や混乱はあるのですが、それに対して質問すると全部答えてくれるということです。そういう意味では、非常に明快です。
加えて、政府部内に専門家を送り込むなど、民間人が政治に携わることが公然と行なわれているでしょう。民主主義というのは、あらゆることをやって、少しでも悪い方向に行くものを止め、少しでもプラスにしていくということの連続だったわけです。絶対正しいなどとはいわない。アメリカの仕組みはそうしたことを反映しているように思います。こういう姿勢に非常に感動しました。
宇野 それはまさにアメリカのプラグマティズムの発想です。絶対的にこれが正しいというゴールがあるというよりは、少しずつでも実験しながら変えていって、結果がよければ取り入れていこうという考え方ですね。そういう意味で、日本の政治はどうでしょうか。アメリカのような実験精神は弱いといわざるをえませんし、権力争いも、表には見えないところで行なわれて説明もなされないといったことが多いのかもしれません。
地域開発とリーダーの育成
宇野 次に、政治とも関係してくると思うのですが、昨今とくに懸念されている地域の問題について伺います。牛尾会長は、青年会議所の運動にも非常に貢献されました。ここにもアメリカでの学びの影響はありましたか。
牛尾 日本の青年団体の活動というのは、そもそもアメリカが原点です。日本青年会議所に参加したときにも、その運動の原点はアメリカのコミュニティ・デベロップメントとリーダーシップ・デベロップメントという概念にあるんだということを感じました。30歳台のメンバーが地域のリーダーとなるべく活動していたわけですが、その原点にはそうした理屈をもっていたんです。
宇野 なるほど。アメリカの場合、トクヴィル(フランスの政治思想家・政治家)の議論にも見られますが、従来からコミュニティのなかで人びとの政治教育を行ない、リーダーシップも醸成していくという発想がありました。
一方で、日本では今日でも、地域の開発やコミュニティを育てるということと、どのように政治的なリーダーシップを醸成していくかということが連動していないと感じます。この点は、いままさに日本で求められているものではないでしょうか。
牛尾 たとえば学校と地域の結びつきに目を向けてみても、アメリカは、州が教育の費用を負担していますが、その教育の財源は州の市民の税金によって賄まかなわれています。加えて、アメリカの教育を取り巻くコミュニティというのは、日本の教育委員会のような生温(なまぬる)いものではなくてタックスペイヤー・コミュニティなので、非常に厳しくモニタリングするし意見もするわけです。
宇野 私も経験があります。本当に、地域の人たちは、自分たちの税金でこのコミュニティの学校を支えているわけだから、学校の運営などにも非常に関心をもっていますよね。一方、日本の保護者のあいだには地域の学校は自分たちの税金が支えているんだという意識はなかなか生まれません。
牛尾 僕は、日本もタックスペイヤー・コミュニティにして、お互いが緊張感をもちながらしっかり関与できるような仕組みのほうがよいと思います。
宇野 税金を支払って、運営を支えるからこそ、自分たちのコミュニティの学校なんだという意識が生まれる。日本の場合、地元の方々でも地方の国立大学などに対してそうした意識はもっていないでしょうね。
牛尾 日本の大学は東京大学を筆頭に、当時の国家権力が主導して、国をよくするためにつくったものですから、地域はあまり関係ありません。当然、地域からすると、自分たちの大学だという意識や愛着も沸きにくいでしょう。
また大学といえば、少し話は変わりますが、僕が東京大学に入学したのは学生運動が盛んで、授業ボイコットも行なわれているときでした。学生運動のなかでは、試験を受けるのを妨害されるようなこともありました。でも僕の場合は、学生運動の指導者と仲良くなる機会もあって、「俺は試験を受けるから」といったら、ちゃんと受けさせてくれた。
宇野 牛尾会長は、共産系の人たちや、学生運動をやっている人たちともコミュニケーションをとることができたんですね。それはなぜだと思いますか。
牛尾 自分ではわかりませんが、正しい、良いと思うことは率直に褒めるように心がけてきました。だから後に、香山健一さんや佐藤誠三郎(東京大学名誉教授)さんなどと出会ったときも、学生運動に参加していたからといって偏見をもったりはしませんでした。
宇野 そこが牛尾会長のネットワークの幅広さの源でしょうか。むしろ、そうした人たちは学生運動では敗北したけれども、その後に地方に行って、地域を支えることになったということは牛尾会長も以前から指摘されていました。そういう意味でいうと、学生運動が地域に人材を供給したという面もあるわけです。
いま日本の地域は、リーダーをうまくつくれなくなってきています。伝統的な村長や地域の名望家などもいなくなってきたし、それこそ学生運動をやっていたような人もいなくなっています。従来型の地域を支える人材というのは、今後も育ちにくくなっていくでしょう。
中核層が担う役割
宇野 地域を支える人材ということにもつながりますが、私たちが携わっているNIRA総研の研究プロジェクトで「中核層」という人びとについての議論を続けてきました。私たちは、「一定の経済的基盤の上に、さまざまな社会活動に参加して日本社会の中核を担い、さらに政治において責任ある判断を下す人びと」を中核層と定義して考えてきましたが、牛尾会長は最初、この「中核層」についてどんなイメージをもっていましたか。
牛尾 僕は旧制学校の最後で新制学校の1回生なのですが、旧制高校を卒業する人は、その多くが地元に残っていたように思います。そういう人たちは、とても地域を大切にする。
戦後、日本は革命的な変革に直面します。憲法はもちろん、長子相続や労働組合、教育制度なども大きく変わりました。そんななかでも、旧制高校を出た人や 兵学校なんかを出た人たちには、自分が日本を背負うんだ、地域を背負うんだという意識が残っていたように思います。僕が中核層として最初に抱いたイメージはこうし た人びとでしたが、こういうところが、いまは薄れてしまっていると思います。
宇野 なるほど、そこが中核層のポイントですか。地域、国を支えるのは自分だ、という意識をもっている人。加えて、地域にいる周りの人たちも、そうした人たちに期待していたわけですよね。それはある種のエリート主義なのかもしれません。しかしそのエリート主義が、ノブレス・オブリージュ(身分の高い者はそれに応じて果たすべき社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観)ではないですが、責任感にもつながっていたのかもしれません。
牛尾 しかし、今日のようにグローバル化が当たり前のものになってしまうと、国や地域を自分が支えるという意識はだんだん弱まってくるでしょう。一方で、本来は非常に優秀なのに、日本の伝統的な慣習や制度のなかで評価されない人というのもたくさんいますが、そうした人たちがグローバルに活躍できる時代でもあります。
信頼し合える社会
宇野 昔の旧制高校のエリートみたいなものは当然もういないし、いい意味でも悪い意味でも、自分が国や地域を背負うという意識をもった人もいなくなった。しかしそれでも、日本社会には、応援しよう、育てようというホスピタリティ的な感覚はまだ残っていると思います。
高齢化や地域の経済力の低下など日本社会全体の基礎体力は低下していますが、そうしたホスピタリティを持続できるかどうかが1つの鍵になるのではないでしょうか。
牛尾 いまの日本社会では、個人主義的というか利己主義的なものが強くなりすぎているように感じます。本来の個人主義は、自分も相手も同じ個人として大切にするという考え方であるはずなのに、自分の子どもや親戚だと大事にする一方で、道ですれ違うだけの子どもには冷たいという。そういうことは、昔は少なかったと思います。
宇野 自分を大切にしてほしいからこそ、他人も大切にする。自分の友人でもなければ親戚でもない、ある意味自分とは違った人間を、それでもやっぱり1人の個人として尊重するというのが本来の個人主義ですけど、日本ではそうした考え方が根づいていないのかもしれません。個人主義というよりはたんなるエゴイズムです。
同様に保守もリベラルも、日本ではだんだん本来の意味からずれた理解がなされているように思います。
リベラルは、もともとヨーロッパの宗教戦争から生まれた考え方です。自分とは違う人間とも、その違いを乗り越えて一緒に生きていかなければならない。そのためにお互いに寛容に、多様性を認めようというものです。しかし日本でリベラルだといっている人たちは、しばしば集団主義的で、あまり多様性を認めない人たちも多い。このあたりの考え方については、すべてにずれがあると感じています。
中核層がより活躍できるような環境を整えようとするならば、本来の意味での個人主義を日本社会に定着させる必要があるかもしれません。社会における信頼を考えた場合にも、個人主義は重要です。身内だけではなく、まったくの他人であっても心配して、場合によっては戒めたりもして支え合うというのが、本来の信頼し合える社会です。それは余計なお世話ではなく、信頼関係のネットワークを構築していくために必要な作業だということを、社会に広く根づかせなければいけないと感じています。
過去の成功からの脱却を
宇野 日本社会は、いまだに高度成長期に形成された社会や組織のモデルにとらわれ、その後の変化に十分対応できていません。まだまだ過去の遺産があるかのように思われているかもしれませんが、それはいわば幻想です。少しでも早く、過去の成功モデルから脱却しなければなりません。日本社会に残っている資産を棚卸し、残すべき部分と変えていかなければならない部分とをチェックしたうえで、自分たちで新しい社会をつくる時期に差しかかっています。
牛尾 いまの大学生は、これから就職して中核層として活躍すべき人びとといえますが、たとえば宇野さんが接している大学生はどんな意識をもっているでしょうか。
宇野 大学のプロジェクトで、地域に学生を送って長期的に住み込んで、一緒に地域の課題を解決しようというものがあるのですが、国際経験も豊かで非常に優秀な学生が集まりました。彼らはグローバルにもローカルにも活躍したいという気持ちをもっているようです。
また地域で活動をしていると、そこで活躍している若い人のなかで、東京出身だけれども地域をまたいで活躍しているという人にも出会います。日本や世界の各地を巡って力をつけて、ゆくゆくは自分で組織を立ち上げたいという、そういう人びともいるんだなとあらためて実感しました。それはもちろん日本人に限りません。
そうした人びとの活躍を目(ま)の当たりにすることで、学生も触発されます。学生や若い人にこうした経験を積んでもらい、伸ばしていけるような仕組みを、日本社会でつくっていかなければと感じています。同時に、そういう人びとを大切にする文化が日本のなかにしっかりと定着してほしいですね。
牛尾 企業の場合も、とくに若い社員の中には古い観念や偏見にとらわれずチャレンジしようという人が増えてきており、大いに期待しています。いまの日本には、高度成長やバブル、その後の低成長時代を経て間違った意味での個人主義が定着し、多様性は嫌われ、閉塞感が漂っています。これを乗り越えるには、1人ひとりが「公」の問題も自分のこととして捉え直し、日本の将来を官僚や政治家だけ任せるのではなく、個々人が積極的に関わり、多様な意見のもとで将来の選択肢をみんなで議論できるような社会が望ましいと思っています。
本稿は、月刊誌『Voice』(PHP研究所)2018年2月号に掲載されたものをもとに加筆・修正等を加えたものである。
対談者
牛尾 治朗(うしお じろう)
NIRA総研会長。ウシオ電機株式会社代表取締役会長。公益社団法人経済同友会終身幹事。
宇野 重規(うの しげき)
NIRA総研理事。東京大学社会科学研究所教授。博士(法学)(東京大学)。専門は政治思想史、政治哲学。